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母の晴れ着


和裁のお師匠さんから
「例のもの、仕立て上がったからとりにいらっしゃいよ」
という電話があった。
私の母が成人式に着た、という50年前の晴れ着を、訪問着に変身させたのだ。
身支度もそこそこに、転がるように表へ飛び出した。

晴れ着といっても、物資の乏しさと、国民のほとんどが極貧状態であった戦後のことゆえ、
今のそれとは比べものにならない質素な晴れ着である。
臙脂色のお召しに金糸と銀糸の唐草模様が前身の裾部分と、振り袖のたもとにほどこされ、
唐草の所々が透かしのように、白抜きに染めてある。

私が成人式を迎えるよりもずっと前に亡くなった私の母がきた晴れ着は、
3,4年前に母の姉から譲り受けたものである。

彼女は母亡き後、我が家へ迎え入れられた後妻を気遣って、
母の着物をすべてひきとり管理してくれていたのである。

着物の管理は洋服の管理と違って、いろいろと手のかかる作業が多い。
虫干しはもちろん、長い間着ないでいた着物はシミが浮く。
そうなったら、虫干ししたところで解決できず、すべてほどいて洗い張りをして、
ひとつにまとめて管理する。

この洗い張りも、京都へ頼んでやってもらう。
もちろん、洋服のクリーニングとは段違いの金がかかる。

それを一手に引き受けた叔母は、私の手元へ「これは貴女が持っているものよ」と
戻してくれたのである。
ほどいて洗い張りされ、まとめられた布の束は、ぜんぶで三十二。

叔母と母の背格好はほぼ同じだから、彼女が母の着物を着ようと思えば、
問題なく着ることができたのに、それをせずに、
母よりも10センチ以上も背の高い私が将来自分のために仕立て直せるようにと、
おもんぱかってくれた叔母の気持ちであった。

それから和裁を習い、仕立て直しを夢見ていたのだが、
仕立て直しができるようになるには道のりがまだまだ長い。

そこで片っ端から仕立て直しをお師匠へお願いし、
なにかにつけて仕立て直された母の着物を着る生活になっていった。

私が24歳のとき、祖母が亡くなり、そのとき「着物には興味がない」という継母にかわって
祖母の着物を私が管理することになったのだが、着物の管理の仕方などひとつも
しらない私は、桐のタンスに入れっぱなしの着物のうえから防虫剤が無くならないように
気遣うことぐらいしか出来なかった。

そして10年以上の歳月が流れ、私が母の着物をきるようになって、初めて祖母の着物にも
興味をもつようになった。

祖母も亡くなるまで着物の女だったし、私の母も、日常的に着物の女であった。
母の残した「普段使いのちょいちょい着」の多さからして、けっして姑に気を遣って着物を着ていたわけではないのだろう。

私の手元に残った仕立て直していない最後の束、それが母の晴れ着である。

お師匠のおたくへ伺うと、ちょいちょい着の失礼をわび、ご挨拶もそこそこに上がり込む。
「いい着物になりましたよ」
笑顔でおっしゃるお師匠について座敷へいくと、真っ白な畳紙が冬の日差しに照らされてくっきり光っている。

当初の浮かれ気分はどこかへ消えて、怖いような気がしてなかなか手が出ない。
正座をしたままお師匠の顔を見上げると、私の心細さを察してか、彼女自ら畳紙を開いてくれた。

成人式の晴れ着とは思えないくらい地味にみえたその着物は、ひとつの布の束から
立派な訪問着に再生されて、威風堂々と、それでいてやわらかく私を迎えてくれた。

おっかなびっくり手にとって、おそるおそる肩にかけて羽織ってみると、
2回目の成人式で振り袖を着るわけにいかない私のために、
お師匠は訪問着の袂部分に唐草の模様を意匠してくれた。

照れくさいのと嬉しいのとで、姿見に映る自分をきちんと見られず、チラリと横目でのぞいたその時に、
私の知らない20歳の母が、ちょん切られて短くなった袂の陰で笑っているような気がした。

Posted: 火 - 11月 23, 2004 at 10:59 午前        


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