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お金の重さ


身につけるものでも、普段使う道具でも、鍋でも靴でも紅筆でも、
新しいものは身体に馴染まぬじれったさがあって、どうもあまり好きではない。

だから私は、新品に魅力を感じることが少なく、昔から使って手にすっかり馴染んでいるものばかりで
生活しているといっても過言ではない古いもの愛好者である。

そこで最近使いづらくてどうも好きになれない生活必需品に手を焼いている。
先月より鳴り物入りでデビューした新札たち。

これが私の気に入らない。
新しいから折り目一つつかないピン札で、一枚抜き取ったつもりで二枚かさなっている意地の悪さ。
やたらにぴかぴか光ってつんと澄ましたその嵩高な態度。
そしてなにより気に入らないのが、銭としての重しがこれっぽっちも感じられないその安っぽさ。

これがなくちゃ買い物ひとつできないし、生活だって成り立たない。
だから邪険にしたくはないけれど、なにひとつとっても手にしっくり馴染む愛らしさが感じられない。
そこがやたらに忌々しい。

もうちっと愛嬌があってもいいもんだけど、あんた女なんだしさ。
埴輪(はにわ)のような目をした樋口一葉に言ってみたって、
どこを見てンだかわかんない目つきで黙ってる。

あんたも世間に出たばかりの新人で、さぞかし緊張してるんだろう。
と、新札見るたび思うけど、まさかお金をくしゃくしゃ丸めて水にくぐらすこともできず、
はやく世間にもまれてどっしり皺の重しをつけておくれ。

こんなつるつるじゃ手から滑ってかなわない。
それはピン札だから、なのではなくて、モデル事態にも問題があるような気がする。

ずいぶん前に姿を消した「聖徳太子」の重量感。
あれはどんなモデルにもかなうもんじゃない。

さすがに日本国を作った人物だけあった、比類なき威厳と品格と自信があった。
これぞ、まさに日本円で一番の上等。

そう思わせる説得力があった。

いまさら「モデル」についてここでぐちゃぐちゃいっても仕方がないけれど、
私はいまだにあの「聖徳太子」の一万円が最優秀賞のモデルであった、と、心底思っているのである。

ぴらぴらぴかぴか、ぱっと見きれいですてきかもしれないけれど(私はちっともそう思わないよ)
これで命をつないでいるのだ、これで自分は生きていけるのだ、という切羽詰まったありがたみ。

そういうのを感じることのできる紙幣。
それが「お金」としての重さだと私は思う。

モデルチェンジなんて、いいことなんてひとつもない。
同じものを大切に大切に使って、自分の手と頭に馴染ませていくのが、モノと人のつきあい方であると思う。

やたらめったら気軽にモデルチェンジなんて。

そのうち結婚相手まで年に一度のモデルチェンジ、なんて時代になりそうで、
新札見るたびに気持ちがずっしり重くなる。

Posted: 土 - 12月 11, 2004 at 04:24 午後        


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