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求む活字


本を読むのが好きな人はたくさんいるだろうし、趣味は読書、といいきれるくらい読書を愛する人もたくさんいるだろう。
ご多分に漏れず、私も読書好きの人間である。
どこにいても何をしていても文字が無いと落ち着かない。
読むモノがなければそのへんの違法投棄広告さえ子細に文字を読み込んでしまう。
活字中毒、という症状なのだそうだけど、まあアルコール中毒や仕事中毒やニコチン中毒に比べたら、
他人に迷惑をかけるタイプの中毒ではないので、よしとしている。

どこへ出かけるときもかならずハンドバッグに一冊の文庫本を放り込んでおく。
読む時間があろうがなかろうが、それはまったく関係がない。
禁断症状が出たときの保険として文庫本はバッグの中で待機する。
何回読んでも飽き足らない。
という書籍がいくつかあって、そういうのが保険タイプとして選出される。
「古典」と呼ばれる作品が多い。

本屋で本の背表紙を眺めるのも楽しい。
棚から抜き取って眺めるよりも棚に収まった状態の書籍達に囲まれると、私は心からホッとする。

街中を歩いているときも、無意識に文字を読んでいるらしく、「えっ?」と声を出して立ち止まることがある。
まわりから見たら「ちょっとあぶないひと」だが、本人だって自分の声に驚いてしまう。
そういうときは、大抵無意識に読んでいた看板やら宣伝広告の文字に疑問を持った時だ。

たとえば造語ゆえ、読み方が瞬時にわからないもの、英語やスペイン語で文法的に間違っている、
日本語英語でなんだかよくわからないもの。など。

無意識に追った文字に疑問を持って立ち止まるような人生を歩むのは
かなり厄介なことだ。

先日もタコス屋の前で、店名のへんてこスペイン語に疑問をもって、「そうはいわないだろう」と、
レギュラーレベルの声で独り言を言って立ち止まったのと同時に
「こんにちは、おひさしぶりです!」と、後ろから声をかけられてものすごくバツが悪かった。

彼は間違いなく私の大きな声の「独り言」を耳にしたはずなのに、それについては何も聞いてこなかった。
遠慮せずに「どうしたんですか?」と聞いてくれた方が弁解の余地もあったのに。

ともかくこのあたりにはいろんな国の言葉が反乱しているので、レストランやカフェひとつとっても
瞬時に解読できない店名や広告が多すぎるのである。

誰にも迷惑をかけない「活字中毒」ではあるけれど、前述したような間の悪い経験は山とある。
まったくもって情けない限りである。

Posted: 月 - 11月 22, 2004 at 09:45 午前        


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